Sunday, February 24, 2008

英語の詩情と第二回短歌国際化シンポジウム

英語の詩情と第二回短歌国際化シンポジウム    沼谷香澄

 二〇〇七年九月二〇日午後六時半開始。平日の夜であったが、会場の中野サンプラザ第一研修室には最終的に五十人を超える人が集まって、京都からお越しの河野裕子氏と、オーストラリアからお越しで、河野氏の近作歌集『日付のある歌』英訳を手がけたアメリア・フィールデン氏の対話を興味深く拝聴した。
 個人的には、七年ぶり、もしかしたら八年ぶりにお目にかかる裕子先生にお会いしたいというのと、英語短歌に手を染めたものでその名を知らない者はいないフィールデン氏の尊顔を拝したいというごくミーハーな理由で、発熱を押して、家から四〇分かけてメトロの駅に着き、いざ電車に乗る段階で財布を忘れたことに気がつき(スイカには充分な残高を持っていたので電車には乗れるのだ。ちなみにスイカとはJR東日本が発行するイコカの関東版ICプリペイドカード。私鉄にも乗れるし一部店舗で買い物も出来る)、迷っていられないとばかり電車に乗り会場へ飛び込んだ。そして目的のお二人の会話を聞いた。その段階で第一の目的は達せられたといっていい。事情を説明したら、いたく同情して下さった受付のご婦人にはいくら感謝してもしきれない。
 実際のところ、『日付のある歌』を翻訳歌集”My Tanka Diary” にするにあたっての、ひいては日本語の短歌を英語に翻訳することの根本的な問題点は、このシンポジウムをまつまでもなく、ウェブジン “Simply Haiku” にフィールデン氏が文章を発表しているのでそれでかなりの情報は得られるのである。氏の文章には、英語圏の人から見た日本語短歌の特徴が端的に/大量に指摘されていて、目から鱗がぼろぼろ落ちた。可能な限りここに紹介する。“Simply Haiku” でグーグル検索すると表紙に出るので、Archivesから今年の秋号 (Autumn 2007, vol 5 no 3)を表示してContentsを出し、右カラムに並んだ中からAmelia Fieldenの名を探せば良い。根性のある人に打ち込んでもらうために直リンクも記す。
www.poetrylives.com/SimplyHaiku/SHv5n3/features/Fielden.html
 英語が”stressed language” (強弱のリズムを持つ言語といえようか)であるのに対し、日本語は”syllabic language” (音節言語と訳していいだろう)なので、日本語の五七五七七の音数に合わせて英語で57577のsyllable を使用すると、一般に冗長になり、日本語の短歌の長からず短からず余情や多義性を含んだ詩情が表しにくい(そもそも英語には、微妙さ-subtlety-に価値をおくという考えがなさそうでもある)。より詩的な面からtankaを短歌に近づけるために、syllableを合わせることはせず、5行書きで短長短長長の長さのみ心に留めて作歌するそうである。もっとも5行書きが唯一絶対の記述方法ではなく、一行に書き下すことを含めて何通りかの記述法があるようだが、5行書きが世界標準である、と、これはフィールデン氏のエッセイに明記してあった。
 ところで、syllableの扱いには定説がない。カナダ在住で英語短歌の創作及び研究を行っている【ルビ鵜沢梢=うざわ こずえ】氏(心の花)によると、音数ではなく語数で日本語の短詩のニュアンスに近づけることを提唱している。短歌の場合、一首を十語から十五語、最大でも二十語程度、syllableの数で言えば二十程度、に抑えれば、日本の短歌に近い「短さ」を得られるという。この文章は同じく”Simply Haiku” 2007年夏号に掲載されている。これはかなり有効な基準だと思う。
 今回のテーマは歌集の英訳であるが、翻訳者は、何も足さず何も引かない、つまり原作者の表現を可能な限りそのまま(曖昧さ、難解さも含めて)英語に移し替えることを心がけたという。語順も原作者の意図に含まれると考えて、可能な限り(英語と日本語は文法的に語順が逆になる場合が多いので、語順を忠実に守っていたら意味が通じない場合もある。そういうときは意味を優先するが)語順も原典に合わせたそうだ。イメージを提示する順番に心を砕く歌書きとしては、訳にそこまで心を砕いて下さるのは羨ましい限りである。

 さて、わたしがこの文章を書き起こした目的は、シンポジウムの様子を報告し、その主な議題であった日本語短歌の英訳を巡る問題を紹介するとともに、英語の詩情と短歌と、どう折り合いを付けて行ったらいいかを探る過程を読者諸氏にお見せするためである。シンポジウムへの参加も、ウェブサイトを放浪して英語短歌を探す旅にでるのも、自身の作る英語短歌が英語の詩情をたたえていなければ意味が無いと思うからである。文章から得た知識とシンポジウムで見聞したことを混ぜて書くことになると思うがご容赦願いたい。さてここで、シンポジウムで説明された内容のひとつがとても興味深かったので紹介する。
5月9日
山晴れて山のかたちのよく見ゆるよき夜となれり君は帰り来
河野裕子 『日付のある歌』
yama harete yama no katachi no yoku mi yuru yoki yo to nareri kimi ha kaeri ki
the mountain is fine,
its shape clearly visible,
on the lovely night
this has become
when you return home
すばらしい相聞歌だとフィールデン氏は絶賛していた。また、ヤ行カ行の多用により詩的リズムが整えられて愛唱性が増すという意味のコメントもされていた。ところで万葉集に親しんでいる我々なら、即座にこの歌を思い出すのではないだろうか。
よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見
天武天皇 万葉集 巻一ー二十七番
裕子先生は、膨大な【傍点=無意識】の引き出しを持っている人である。作歌の最中に、また後から見直したときに、それを思い出さなかったとしても、無意識下にこの歌の「よ」の軽やかなリフレインがあったと考えるのは見当はずれではないだろう。この件について思い至ったかどうか両氏に質問してみたかったが機会が無かった。ちなみにフィールデン氏は日本の二つの大学院に在籍して栄華物語の研
究を修められ、日本語で書かれたやまとうたの技法にも通暁されている。私のような「ちょっとかじってます歌人」よりはるかに、歴史の中における短歌の読みに長けた人であり、現代短歌に何気なく使われている語にも古典の影響を感じ取ることが出来る人である。しかし、悲しいかな、この同音の繰り返しを意味とともに英語に移し替えるのはいかなる達人にも不可能である。そしてこの歌は言葉遊びを主
眼とするものではないので、意味を優先させるのが自然である。
シンポジウムで話題になったことに関してもう少し書こう。
会場から、前述の5月9日の歌、3行目の”on” は不要なのではないかという質問が出た。私もそんな気がした。歌の中心を”night” に置く場合、従属句を作ってしまう”on” があると、3行目全体の重みが別のところへ移ってしまうのではないかと。回答は、「このonがなければ英語として成立しない」だった。それでいて、4行目の”this” は前の”night” を受けていて、歌の中心は”night” にあ
る、ということである。
ここで日本語の作歌の現場に立ち返ってみると、たしかに歌の重心は常に被修飾語の名詞に帰着するわけではなく、むろん主語である必要はなく、語法をわざとねじって言葉に力を持たせた部分を歌の中心とするのが通常である。例歌を探すといっても枚挙にいとまがないので、同じシンポジウムのレジュメに引かれた歌の日本語部分のみを例とする。
9月23日
さびしいよ、よよつと言ひて敷居口に片方の踵でバランスを取る
同じ河野裕子『日付のある歌』からの引用。「よよつ」は、「おっとっと」とか「どっこいしょ」に似たニュアンスの語だという意味のことを作者自身が語っていた。この歌の中心は「さびしいよ、よよっ」で突然並べられた素直なセンチメンタリズムとユーモラスな情景。表されているものは、それを含み持つ作中主体の日常生活に現れては消える各種の感情のないまぜになった生活そのものだろう。で、
この歌の中心をなす語の品詞は、形容詞、間投詞、オノマトペである。要するに力を与えさえすれば何でも詩の中心になりうるということだ。
さて、「山晴れて」の歌に話を戻そう。”on”によって、”night”が従前の語句の修飾語に落ちるがそれでも歌の中心は”night”にあるのかどうか、と、フィールデン氏にメールで質問してみた。回答は、この訳は詩としての訳であり、意味を散文的に訳すると”Tonight the mountain is fine, and its shape is clearly visible. Tonight has become a lovely night because you have returned home.” となるそうである。つまり、ある「夜」に散文的に力を与えるためには、”Tonight” と語頭に持って来たり、主語にしたりする必要がある、と私は読み取った。それをせず、”on the lovely night” の”night” に重心を置くのはやはり英語の詩においても、読みの訓練が必要だということを示すといえるかもしれない。この例は次の行の”this” の力を借りているのでまだわかりやすいが、…英詩の力点を見抜くには、大量の英語の散文を読みあさって一般的な英語の語法を身体に覚えさせて、それから英詩にあたって詩的なねじれを、というか重心の置かれた部分を見抜く訓練が必要なようである。『日付のある歌』が”My Tanka diary” として全訳され英語圏の人の目にも触れ得たのは、そして敢えて散文的な強調法をとらずに詩的にしかも原文の語順に大きな変更を加えずに訳され得たのは、翻訳者であるフィールデン氏自身が、英語で詩と短歌を書き歌集も出版している詩人・歌人であるからに他ならない。そして、余談だが、『日付のある歌』がそうであるように、”My Tanka Diary” も玄人向けーーで言葉が悪ければ、日頃詩に親しんでいる人が深く味わうための本であると言える。
翻訳者も詩人であると書いた。そうすると、一般的に言われる「翻訳は訳者による創作である」という言葉が浮上してくる。この本に関しても、原作のニュアンスを可能な限り忠実に英語に移し替えることを心がけたとはいえ、オノマトペを造語する歌人である河野氏の作品を訳するには困難を極めた、と言う意味のことを、会場で翻訳者が静かに語っていた。特に造語のオノマトペの場合、解釈に食い違いが生じやすい。類似のものさえ参考にならない場合がある。度々話題にする「よよつ」であるが、訳者は「よよと泣き崩れる」ほうの「よよ」だと思った、と語っていた。そしてそのように訳された。その際、「音」への配慮は慎重になされたようだ。しかし作者本人は全く別のことを表すと言っている訳で、いくら多彩な解釈が面白い言語芸術だと言ってもここまで食い違うのを面白がっていいものかどうか少し疑問というか後ろめたさを感じる。
ただこれは日本語内部でも起こりうる問題である。類似の議論が以前mixiで交わされたことがあるので概略を紹介する。
瞬間のやはらかき笑み受くるたび水切りさるるわれと思へり
       横山未来子『樹下のひとりの眠りのために』一九九八
わたしはこの歌集を読んだことがないのだが、序文で佐々木幸綱氏が「水切り」を、川などの水面へ平たい石を投げて、水に落ちずに水面を何回跳ねるかを競う遊びのことと解釈したらしい。わたしは生け花用語の、バケツなど水に切り花の切り口を深く沈めて水中でさらに切り、水揚げをよくする作業のことだと即座に解釈したので、川の水切り説を聞いたときの驚きは半端ではなかった。他の人の意見も聞
いてみたが、キャベツの千切りを水にさらした後の作業とか、豆腐に重しを乗せて調理しやすくする作業などの意見も出た。のちに、作者の友人から、作者の意図は生け花の方にあったと聞いたが、漢字が当ててあっても同音異義語による解釈の差がここまで開くことを、何かを感じさせようとする文藝の特徴として果たして無責任に楽しんでいていいのかどうか。この面白さを別言語に移し替えようとすると
、洋画に出てくるだじゃれや現地の風習に基づくギャグなどをどう訳するのか字幕制作者が苦労するよりもはるかに困難な作業が翻訳者を待ち受けているとみて間違いない。そういう翻訳は、する必要がないのではないかと思う。それぞれの言語で、多義性なりリズムなりを楽しめるように新しく創作する方がよほど建設的だ。
右の横山の歌は例として適切ではなかったかもしれない。いみじくもフィールデン氏は、くだんの文章の中で、短歌の曖昧さや多義性が受容されるのは、「重要なのは作者の感情を共有することだから」と指摘している。最低限、感情くらいは共有できなければお話しになるまい。多義性の限度に基準がないこと、というと言い過ぎになるか、多義性による曖昧さをどこまで回避して読者を楽にしてあげるか
の決定権が作者に委ねられていることは、翻訳以前の、日本語の短歌が伝統的に抱え持つ、これは欠点と言っていいかもしれない。まぁ難解すぎる歌は悪歌と断ずれば済む話かもしれないが。裸の王様にアンタ裸だよと言うのが困難な歌壇の問題にまで言及するのは風呂敷の広げ過ぎだと思うのでこのへんで自粛する。
脱線が過ぎた。日本語の短歌を外国語に訳することを考えると、短歌とそれぞれの言語の本質的な特徴に、いちどに正面から向かい合う必要があるらしい。一首の中での時制の不一致は、時制を持つ言語ならその不自然さを含めて翻訳可能だろうが、詩作に古語を使うことがまず考えられない英語に、古語と現代語の混用した作品をーー現代日本人の心をーー他国語で読み書き考えるひとに伝えるには、単なる翻訳ではなくて長い解説文が必要になるに違いない。つまり、詩で表された心を他文化の詩で感じてもらうことには限界がある。
裕子先生はシンポジウムの会場でアメリアさんに話していた。自分が在米していた二年間は、全く短歌を作らなかった。短歌は、日本の風土と密着した詩だと自分は考えるが、それを英語で書くことは可能なのかと。アメリアさんはそれにこう答えた。文化が違えば考え方も変わるが、それぞれの言葉、それぞれの感情を定形に入れて詩にすることは可能であると。つまり、それぞれの言語文化ごとに短歌的
詩情が形成されていってもいいではないかという考え方だ。言語の数だけ詩情がある。これは考えるだけでわくわくする。短歌という形式を面白いと思ってくれる人が外国語文化圏にいるならば、その人に日本語を使った日本の短歌の面白さを【傍点=正しく】理解してもらって、ローカライズしてもらえば、それでいいのではないだろうか。
会場で語られていたことだが、短歌の翻訳はまずアンソロジー、それから抄訳、歌集の(ほぼ)全訳というのはやっと始まったばかりだという。短歌に限らず、英詩は概して短い。そのせいもあってか、一つ一つの作品を独立した作品としてじっくり鑑賞する傾向があるらしい。それが、歌集全訳の障害になる。つまり、名歌を際立たせる平歌の役割が評価されないのだ。茂吉のへんてこりんな難解歌やあけ
すけな感慨のみの歌は役割として平歌だと思うが、英語圏ではどう見られているのだろうか。『赤光』は早い時期に”Red Light” として訳が出ているが悲しいかな抄訳である。最も出回っている本に(なんと定価四〇米ドルを越える!)「とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるき水恋ひにけり」が入っているかどうか、だれか賭けませんか?(笑)
英語短歌の連作(tanka sequenceという)は、歌数の極めて少ないものが多い。三首などというのもある。十首だと多い方だ。投稿を受け付けているところでは、連作は六首以内(!)とするところを複数見かけた。その延長かどうか、家集であっても名歌ばかりを集めた薄い歌集が出版される傾向がある。フィールデン氏の功績により、オーストラリアでは一冊の家集に納められる歌数は増える傾向にあるらしいが、それでも平歌を挙げて「この歌はよくない」という評がつくことがあるそうなので、ひとりの作者が構築する一冊の本=世界として楽しむための日本の歌集のありかたが深く浸透しているとは言えないようだ。
と、ここまで書いてさすがに鈍い私も気がついた。日本語短歌の雑誌でも連作論はたびたび取り上げられるテーマであるが、平歌の存在を受け入れた段階で既に我々は、短歌をシークエンシャルに読むことを前提にしている! むろん、それを拒否して見開き2ページに一首掲載の形で本を出す人もいるので、全ての日本人の歌人がそうであるとは言えないが。私の挑んでいる「一冊の本として短歌を書くこと
」をもっともっとブラッシュアップして、「一冊の本として歌集を楽しんで読んでもらうこと」を、もっと強気になって(笑)目指したい。
英語短歌に関して書き始めたつもりが、妙なところに着地してしまった。強いて話を戻せば、短歌連作の面白さの、世界的認知度を高めることも、目標の一つに入れることになろうか。ちなみに世界的な短詩の流行は、俳句から短歌へ移っているそうである。俳句では感情を表現するのに短すぎるということらしい。むべなるかな。        

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