Thursday, February 28, 2008

観覧車の内側より——”Ferris Wheel -- 101 Modern and Contemporary Tanka” をめぐる随想

観覧車の内側より——”Ferris Wheel -- 101 Modern and Contemporary Tanka” をめぐる随想
                          沼谷香澄

 日本語のタイトルは、『観覧車 英訳現代短歌一〇一首』鵜沢梢、アメリア・フィールデン、二〇〇六年、米Cheng & Tsui 社刊。なお原文は全て横書き、日本語タイトルの一〇一もアラビア数字。序文と本文は英日併記。一首を英訳、原文(横書き日本語)、ローマ字五行書きの順に一ページに配置。巻末にそれぞれの歌の作者紹介と索引あり。
まず訳の紹介をしよう。
   ferris wheel,
   go round and round!
   memories last
   one day for you
   a lifetime for me
          -----Kyoko Kuriki
   観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生 栗木京子

 共訳というが、イニシアティブを取っていたのは鵜沢氏であり、より英詩らしくなるようにフィールデン氏が適宜提案するという形で翻訳はすすんでいたらしい(Simply Haikuによる)。この栗木さんの歌のリズムの忠実な再現を代表としてもいいが、巻頭の、これも歴史的名歌である、佐佐木幸綱氏のセロリの歌はこうなっている。
   like a child
   making fresh, crispy sounds
   you crunch celery sticks
   I don't need a reason
   to adore you
           ---- Yukitsuna Sasaki
   サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず
佐佐木幸綱

 「愛する」を「adore」と訳したところ、「あどけなき」を私はまず連想したが、一行目と呼応して、ア段の多用によってリズムを整えている。意味もこのほうが正確。倒置は、原文に異なるが、初句の軽さを少しでも残そうとする配慮ではないかと、鵜沢氏に確認したらそうだと返答をいただいた、また、s音、k音が繰り返し意識的に使われていてフレッシュなイメージを読者に与えるので、英訳でもこの点を注意して選ぶ単語を工夫した、とのことである。
 内容について。とりあえず日本語の方の「はじめに」から引用する。
   この本は英語圏の方々に日本の現代短歌のいくつかを紹介する目的で作られました。

 もうひとつ、おなじ「はじめに」から引用する。どう思われるだろうか。
   ここに載せられました現代短歌は私がこの十年余りの間にいろいろな機会に目にして
   感動しノートに書き留めておいた中から一〇一首選んで英訳したものです。

 この本は歴史的名歌を多数含み、叙情豊かで読みやすいアンソロジーである。多数決的にいま(正確には明治から一九九〇年代までに)読まれ詠まれている歌がこんなかんじですといわれても否定しない。愛唱性の高い歌が選ばれ、細心の注意を払って翻訳されている。一首一首は、重い。「特殊な感性の私の湿っぽいところ」を魅力的に見せることに成功した歌のコレクションである。
 そして右のとおり、実はこの本は鵜沢氏個人の短歌ノートからの編集でありその特徴または好みが顕著に出ている。しかし類似の良著がないため、現代短歌を英語圏に紹介するという役割をいまのところ一手に担っているともいえる(この本は商業出版物である)。
 ところで、アンソロジーではつきものの、作者と作品の取捨選択の問題にも言及したい。言ってしまえばお約束のクレームだがここで脱力しないでもらいたい。「はじめに」には、作者より作品を優先させて選んだ、とある。確かに、暗誦してリズムを楽しむ傾向の強い詩である英詩をたしなむ人たちに興味を持ってもらうためによい歌が選ばれている。しかし、叙情詩集として楽しめる本ではあっても、いまの日本の短歌を公平な観点と広い視野から紹介しているかというと、残念ながら、といわざるを得ない。もっとも、ウェブに散見されるこの本のレビューを見ると、「鵜沢氏の短歌ノートからの翻訳」であることには注意が払われており、歌についても平明で翻訳や実作の入門に適したタイプの歌が選ばれている、という意見が見られる。掲出歌は二〇世紀の作品だと正しく認識されてもいる。英詩の世界にも当然無数のスタイルや主義主張があるだろうから、これが短歌の全てでないことは、察する人は察するだろう。「はじめに」では、現代短歌はスタイルもテーマも多岐にわたることが指摘されている。それを証拠付けるかのように左のような、「未来」で育った私たちには馴染みの歌も収録されている。
   調べより疲れ重たく戻る真夜怒りのごとく生理はじまる
                     道浦母都子
   戦争を憎むと言へりしかりしかり然りしかうしてきみはどうする
                     黒木三千代
 ざっと見た感じ、私が歌を始めた一九九〇年代前半までに世に出た歌人または作品が対象となっているようだ。巻頭二首と巻末二首を掲載順に引く。英訳およびローマ字表記は略。
   サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず
    (再掲)佐佐木幸綱
   雨の枝に恋を待つごとどきどきとふくらみてゐる杏の蕾
    伊藤一彦
   湯殿より黒砂糖石鹸引きゆきしあの夜のねずみ嬉しかりけむ
    角宮悦子
   おとうとよ忘るるなかれ天翔ける鳥たちおもき内蔵もつを
        伊藤一彦
 ちなみに一人の作者から引かれている歌は最大五首である。五人いる。収録全作者数は五十五人。
 そして、収録されていない作者と、いま思いつく限り、現代短歌のアンソロジーとして特に収録されないのはおかしいと個人的に思う作品をあげる。塚本邦雄「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」他全作品。以下にあげる歌人も作品掲出の有無に関わらず全作品掲載なし。葛原妙子「奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり」。土屋文明。山中智恵子。春日井建「大空の斬首ののちの静もりか没(お)ちし日輪がのこすむらさき」。岡井隆「肺尖にひとつ昼顏の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は」「抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う」。中条ふみ子。永田和弘「あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまで俺の少年」。(ちなみに河野裕子の「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」は収録されている)。石井辰彦。藤原隆一郎。(もっとも右の二人は翻訳の困難さが普通の歌とは違うことは認める)。加藤治郎「もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情を見せたくせに」。東直子「廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て」。穂村弘「終バスにふたりは眠る紫の〈 降りますランプ〉に取り囲まれて」。水原紫苑。梅内美華子。仙波龍英。枡野浩一。なお時期的に、黒瀬珂瀾、斉藤斎藤、江戸雪、今橋愛はしかたないかもしれない。
 とにかく、この本がいまの短歌の全てであると世界が誤解すると困る。なぜか。国際的な詩人の交流の網から、歌人は「食えない魚」として選別廃棄されてしまうからである。「わたし」と「叙情」と「感性」しかうまみのない魚は、食えない。つまり歌人は、たとえばシンポジウムやコンベンションに呼ばれて、言語芸術家として議論やコンセンサスを求めるにあたうべき存在だと顧慮されていない。いま現在そういう現象が、日本国内で行なわれる現代詩の国際イベントでさえ、現実に起きているのである。
 それは我々の責任だ。最新情報を外へ向けて発信することが極めて少なく、日本の、いや短歌の外から見て短歌を多面的に理解してもらうには材料が少なすぎるからだろう。さすがに〈ゼン—ハイク〉の延長に短歌を置くような誤解は解けている、と、ウェブをさすらっていると感じる。しかしまだ不足だろう。短歌を巡るムーブメントの数だけ非日本語圏への発信は必要だ。ただ、今の段階で、歌人がどこへ何を言ったら世界を振り向かせることができるかは疑問が残る。日本人は一般に生命の危機に対する想像力が絶望的に欠けている(これは私が生活していて実感すること)。いや、危機感さえ型にはまっているといってもいいかもしれない。災害が起きるたびに奔流の如く湧いて出る嘆きのクリシェにはうんざりする。生温い人生を送ってきた人には機会詩さえ生温いものしか書けない。物心ついたら銃を持って瓦礫に寝起きしていたような人たちがもしも短歌を書き始めると、私なんかのぬるま湯歌は糸ミミズみたいに瞬時に流れ去るだろう。余談かどうか、アハマッド・シャー・マスードの部下には詩のうまい若者がいて、野営の焚き火を囲んで暗唱する詩が将軍に愛されていた、と読んだことがある。むろん短歌ではないが。
 日本の若者もじわじわと生死のレベルで追いつめられているから、短歌は今後さらに大化けするかもしれない。遠い世界を視野に入れている若者も増えている。たぶん歌人の中にも。
   観覧車冬のみぎはに影ゆらぐ食へない魚を掬ひ零して  香澄


 いま私たちの近くにある歌をいかに英語圏へ発信するかを考える。
   題名をつけるとすれば無題だが名札をつければ渡辺のわたし
斉藤斎藤『渡辺のわたし』
   お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする
              同
といった、コンセプト先行型の歌に、冒頭のようなきめ細かい翻訳作業を当てはめる必要はおそらくないが、この作品に過激にあらわれている、「私」という概念への不信または疑問は、いっそ英語にしてしまってidentity crisis として他文化の詩人の意見を聞きながら論じた方が面白いのではないだろうか。つまり、現在の作品及び作品の眼目を見抜くことが出来れば(それが最も難しいのだが)とりあえず義務教育で英語を学んでいる我々には、我々のもつ問題を英語圏の人々に向けて発信することは困難ではないと信じる。
——
参照
Translation of Tanka -- work of collaboration -- in the case of As Things Are and Ferris Wh
eel
(Kozue Uzawa, "Simply Haiku" vol.4 no.4; winter 2006)
www.poetrylives.com/SimplyHaiku/SHv4n4/features/Uzawa.html

Book Reviews LYNX XXII: February 2006 Jane Reichhold
www.ahapoetry.com/ahalynx/221bkrvs.html
(長いページの下から一割位のところ。ページ内検索したほうが速い)

『マスードの戦い』長倉洋海 河出文庫 1992
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